捨てる勇気がほしい
私の仕事はざっくりいえば資料を集めて文章を書き、読み手に情報をお届けすることです。そんなわけで、仕事の半分くらいは文章を書き、残りの半分は文章を書くための情報収集やその準備等に費やされています(あくまで肌感覚)。
そして、まだまだ若輩者なので、十中八九、書いた文章は上司に添削いただきます。
こういう情報も追加できない?
話がやや飛躍してるから、説明追加してくれる?
などなど、情報を追加するような指摘が入ることがほとんどなのですが、ごくたまに
ここは削ってもいいかも
ここは落としましょうか
という指摘が入ることがあります。
添削後の修正コストで言えば、前者の情報追加要求の方が圧倒的に大変なのですが、後者の指摘をされると
せっかく情報集めたのに、削っちゃうのか
…と切ない気持ちになります。
とくに、ある程度時間をかけて書いた文章がカットされるというのは、さみしいです。
このブログをしたためる数時間前に、まさにその状況に陥りました。
1時間くらいかけて調べた内容を、文章におこしたのですが、上司の添削であっさりカットされてしまいました笑。
文章を考えた立場としては、自分が生み出したものを削られるのは「非常に嬉しい」とはいいがたいです。ただ、添削前後で文章を比較すると、たいてい削られた後の方が文章の内容がシンプルで読みやすくなります。そのため、削るよう指示した上司に対して何か感情を抱くことはなく、
「あ、削ってよかったわ」
と結果的にはプラスに捉えて終わることがほとんどです(すべてではない笑)。
捨てられないのは、執着しているからなのかもしれない…
頑張って情報を集めた分だけ、その情報をもとに書いた文章が削りにくくなるというのは、執着ともいえそうです。
頑張って書いた文章だからできるだけ残そう、と考えると、そこは部分最適になるかもしれませんが、文章全体を読んだときに余計だと感じたり、話がそれるような感覚を抱くことがあるかもしれません。木を見て森を見ず、ではないですが、執着しすぎて全体最適になってない、ということが生じかねません。
頑張るのはいいことですが、頑張ったから削らない、というのは自己満でしかなく、その文章を作る本当の目的が霞んだ状態かもしれません(怖)。
以前、ある上司に
「若い人にこそいうアドバイスなんだけどね、『捨てる覚悟』をお持ちなさいね」
と言われました。加えて、
「ついつい頑張りを見せたくて、自分はここまでやったと伝えたくて、集めた情報全部相手に伝えてしまう人が時々いるんですよ。ですが、大事なのは量よりも質で、関係が強くない事柄まですべてまとめて伝えてしまうと、聞き手はかえって本質を見抜きにくくなる。情報の多さだけが評価対象ではないので、集めた情報でも、今回は使えなさそうだなと思ったら、潔く削った方が、意外といいもんですよ」
とも言いました。
たしかに、書き手ではなく読み手や聞き手の立場になるとき、本筋から離れた話がおおいとつい
蛇足だな
とか
枝葉の議論は良いから簡潔に要点だけ教えてくれ(で、はよこのミーティング終わらせて)
と思うことが多々あります(すいません、口が悪くて)。
執着で残された情報って、正直聞き手と読み手にとっては「いまはいらないかな」というものだったり「なんでこの情報ココでだすの?」と混乱を生じさせられるものになりやすい気がします。
頑張るのはいいけれど、それで執着を生み出してはもったいない。
「がんばったから消したくない」というベッタリしたこだわりを持ちかねないことを自覚し、これは本来の目的にそぐわないなと気付いたら、多少切なくてもべりっとはがして捨てる勇気も大事ですね…。
それがうまくできたとき、私の文章へ入る赤はわずかに減るんだろうか…笑